Mimi&Associates ミミと愉快な仲間たち

東京→札幌→大阪→東京 度重なる転勤の末に得たものとは…幼稚園受験、小学校受験を経て現在の様子等を交えて、役に立った事等を綴って参りたいと思います。

我が生い立ちの記_米屋の長女に生まれ(幼少編)

1.我が生い立ちの記_米屋の長女に生まれ(幼少編)

 

私は19⁇年1月17日に千葉県松戸市のとある産婦人科で生まれました。(松戸市民ではありません)

 

家は、父親が米屋を経営していて、お米以外にも住宅設備やガス、灯油等を取り扱う会社を経営していました。(今も上の弟が経営しています)

おじいさんが54歳で亡くなってしまったため、当時中学3年生だった父は家族を養う為に高校に進学せず、お店を継ぎ社長になりました。その後、お店が軌道に乗ると小学校の同級生だった母と結婚し私が生まれました。

母は保育士の仕事を辞めて、父の会社の仕事を手伝う事になりました。

私の本当の名前は、亡くなったおじいさんの名前から受け継いだ珍しい名前です。

 

父の弟と妹2人は、私たちと同じ家で暮らすことになりました。

おばあちゃんは当時元気だったので、お茶やお花のお教室を家でやりつつ、なぜか布団屋さんもしていました😊

地域の人たちからの推薦で老人会の会長もやっていました。

 

当時小さかった私は、父の弟や妹が自分の本当のお兄ちゃんやお姉ちゃんだと思っていて、おねえちゃんから「ミミは私の妹じゃないんだよ、私は社長さんの妹」と言われた時は本当にショックで寝込んでしまいました😭

 

家族以外にも、従業員さんが家の敷地内に小さな家を建てて住んでいたので、ご飯を食べる時はみんな一斉に集まって食べるのですが、人が入りきれずドアを開け放して、外にまで長いテーブルをはみ出して置いて、みんなでワイワイ言いながら夜ご飯を食べるのが我が家の習慣になっていました。

 

 

家族は、お母さん(おばあちゃんはおばあちゃんと呼ぶと年寄りみたいな呼び方はやめてと言う為、お母さんと呼んでいました)、社長さん(パパ)、あんちゃん(父の弟)、えっちゃん(父の上の妹)、おねえちゃん(下の妹)、ママ(母)、私、年子の弟の「がく」、従業員さん(小さかったので本当の家族だと思っていました)、犬5匹、猫4匹の大家族でした。

 

私とがくは、市の外れにある遠くの保育園に通っていました。

家からかなり遠いからなのか、いつも父か母がお迎えに来てくれるのは夜の7時で帰りはいつもビリでとても寂しかったのを覚えています。

がくは泣き虫で、泣きながら「いつパパとママは迎えに来てくれるの?」と私に聞くので「後5分くらいじゃない?」と適当に答えるとまた5分したら、がくが同じ事を聞いてくるのでウンザリして「そのうち来るよ!」と怒りながら答えていたのを覚えています。

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お姉ちゃんとがくと私

 

がくは、甘えん坊でパパかママがお迎えにくると抱きついて、家に帰ってもずっとママにべったり貼り付いて離れず、私はママに甘えたくても甘えられず寂しかった思い出しかないです😭

 

大人になった今でもがくは、一日100回はママママ連発してます(笑)

 

幼少期で1番嫌だったのは、夏休みなどの長期休みになるとなぜか私だけが、母の姉達の家かえっちゃんの家(私が3歳の時に結婚して別の家に住んでいました)に連れて行かれて夏休みが終わるまで、家に帰って来れないことでした。

冬休みや春休みもそうでした。

そんな生活が保育園が終わるまでずっと続きました。
がくは甘えん坊なので、親戚の家に預けられた事は一回もありませんでした。

いつも、母の姉たちに「ミミはいつ家に帰れるの?」と聞くと「おばさんたちは、いつまでもいてくれていいよ」と言うのでそれ以上は聞けず、こっそり隠れて泣いていました😭

本当は私は、親戚の家に預けられるのが嫌だったのです💦

 

今思うと、当時の保育園は夏休みとかはお休みだったらしく、預かってもらえるところがなくて、親戚の家に預けられていたんだと思うのですが、家が近いわけでもないので、一旦預けられたら何日もいないといけなかったのが3歳〜6歳の私にはしんどかったです😵‍💫

今思うと、おばさん達の好意に感謝しないといけないのに、当時の私は子供だったなと思います😓

 

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右から、社長さん、がく、ママ、私

取引先の商社の方々と河口湖に行った時の写真

みんなで山梨県でぶどう狩りをして楽しかった思い出があります!

 

私が4歳の時に、一人一軒ずつ小さな家を敷地内に建てて住んでいたのをやめて、鉄筋のビルを建てて一階はお店、2階が住居、3階がテナントの入るビルに引っ越すことになりました。(同じ場所)

 

引越ししたすぐ後くらいに、えっちゃんの旦那様(私は田中おじさんと呼んでいて農業高校の先生をしていました)が、私とがくを自分の勤め先の農業高校の学園祭に招待してくれました✨

 

生まれて初めて行った農業高校の学園祭は、絵本の世界ではない、本物の牛や豚が間近に見れて、牛や豚の大きさにびっくりしたのと、高校生のお兄さんやお姉さんたちがとっても大人びて見え、田中おじさんが生徒さん達から「先生」と呼ばれていた事に衝撃を受けました🤣

 

田中おじさんが、学校で飼育しているピラニアを見せてくれたのですが、歯がギザギザでジャンプして水槽の外に出ようとしていたのを見て、4歳だった私はとても怖くなり、すぐに別の部屋に行ってしまいました🥶

 

農業高校で食べさせてくれた、玄米ご飯のおにぎりや、ピラニアの唐揚げ等は食べたことがなかったのもあり、とっても美味しく感じました!(◎_◎;)

この時の体験が、私を学園祭好きにさせてくれたんだと思います❣️

 

ここまで書いていて気がついたのですが、私は比較的小さな頃の出来事を覚えている方なのかなと思いました。


4歳にもなると、パパとママはがくに完全に取られている事に気がつき、お母さん(おばあちゃん)を味方に付けて夜になるとお母さんの部屋に行ってお母さんと猫の姫ちゃん(シャム猫)と3人で寝るようになっていました。

 

ある日、お母さんが「姫ちゃんが何処にも居ないの!」と言って家中を探し回っていましたが、結局その日は姫ちゃんを見つけられませんでした。

 

その翌日、姫ちゃんはボンベ小屋(プロパンガスのボンベをしまってある小屋)でひっそりと亡くなっているのが発見されました。

お母さんは「猫はね、死ぬ時はこっそりと家の外に出て行って亡くなるんだよ」と言っていました。

その日からは、お母さん(おばあちゃん)と私の二人で夜は寝るようになり、お母さんに「もうネコは飼わないの?」と聞いたところ、お母さんは「姫ちゃんのことが大好きだったから、他の猫はいらない」と言ってそれ以降、猫は飼わなくなりました。

 

5歳の時に、お姉ちゃんが家でやっていたピアノ教室に生徒さんの一人が公園で捨てられていた子犬を拾って「うちはマンションで犬が飼えないから…」と言って連れてきてしまい、仕方がなく家で飼うことになりました。

この犬は、ゆうちゃんと呼ばれ、最初は「こんな犬連れてこられても困るよね…」と明らかに家では厄介者扱いされていて、ゆうちゃんも敏感に空気を察知して、リビングの隅で震えていました。

でも、ゆうちゃんは賢い犬だったので、毎日欠かさず、朝9時からお店に出て夕方6時までは看板犬として働いていてお客様からも好評でした。

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がくに抱っこされたゆうちゃん(メス)


お客様の中には「こんな、うんともすんとも言わないおとなしい犬は、番犬にもならないわね!」と嫌味を言う方もいましたが、ゆうちゃんはゆうちゃんなりに考えて、自分の居場所を確保していったのです。

2.まとめ

ゆうちゃんは自然と家族の一員として認定され、夜も私の布団で一緒に寝るようになっていました。ゆうちゃんと過ごした17年間は、楽し過ぎて私にとっては宝物のような日々でした。

もう、二度とあんなに可愛いくて優しい犬には出会えないでしょう✨

長くなってしまったので、ここら辺で一回切りましょうか🙏

何故私が子どもの教育にこだわっているのか、続きを読んでいただけたらお分かりいただけると思うのですが、PV等を見てこの記事が好評でしたら、続きをまた今度掲載したいと思います🙇‍♀️

 


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